2013年5月9日

尼崎アスベスト訴訟(労災型)第18回弁論に30人

尼崎アスベスト訴訟(労災型)第18回弁論レジュメ

2013年5月8日

5月8日に開催された尼崎アスベスト訴訟(労災型)第18回弁論は、神戸地裁204号法廷で開催され、30人の傍聴者が原告を激励しました。裁判長(松井千鶴子・新裁判長)が替わったため、八木弁護団事務局長が、本件裁判の意義について意見陳述しました。また、本上博丈弁護士が、クボタの主張に反論しました。以下、そのレジュメです。

尼崎アスベスト訴訟(労災型)の意義について

弁護士 八木和也

本訴訟は、クボタショックをきっかけとして全国で沸き起こったアスベスト被害者の救済を求める運動に端を発した訴訟であり、国及び加害企業の責任を明確化し、被害者の完全救済を目的として提起された訴訟である。

クボタショックによって、これまで隠されてきたアスベストによる被害がいっきに顕在化し、我が国においても、夥しい数の犠牲者が存在することが明らかとなった。

クボタショック以降の平成18年度から平成23年度までの間だけで労災の認定者数は8485名(労災認定者数7138名、石綿救済法の認定者数1347名)、非労災型の認定者数も平成24年11月30日現在8349名にのぼっており、公に認定された被害者だけで実に16,834名にまで至っているのである。

我が国のアスベスト使用量は70年代から90年代にかけて緩やかにピークを迎えており、潜伏期間が20年から50年とされていることから考えると、被害の発生はこれからも増加を迎えることになることは確実である。

現に中皮腫の死亡者数は、平成18年度が1050名であったのに対し平成23年度は1258名と増加の一途をたどっており、クボタショックの震源地、尼崎市内に限ってみると、10年度の中皮腫死亡者が26名であったのに対し、11年度は43名と倍増した。

史上最悪の産業災害と言われるアスベスト被害の顕在化は、今まだ始まったばかりなのである。

アスベストは耐火性・耐熱性・耐酸性といった特性を有しており、特に20世紀に入って以降、世界中で多種多様な製品の原材料として使用されてきたが、アスベストの歴史は、人々の生命を奪い続けてきた歴史でもあった。

20世紀初めには、早くも石綿肺による死亡例が報告され始め、1930年にはアスベストの吸引によって石綿肺になることが疫学的に証明された。

石綿肺とはじん肺の一種で不可逆性の疾患であり、呼吸困難によって地獄の苦しみを強いたうえで命を奪う恐ろしい疾患である。我が国でも40年には、20年間アスベスト工場で働いた労働者のうち100%が石綿肺に罹患していることが、国の調査により明らかになっていた。

そうして、55年にはアスベストは肺がんをも発症する物質であることがイギリスでの疫学調査によって明らかとなり、我が国でも60年には石綿による肺がん患者が発生していた。

さらに、60年代に入り、労働者のみならず石綿工場や鉱山周辺の住民にまで被害が及び、しかも住民らの被害は中皮腫という恐ろしいガンを発症させるものであることが次々と明らかとされた。

そうして、1965年には、国際対がん連合が、アスベストが肺がんや中皮腫の原因となることは疑いないとして「警告及び勧告」を発するに至り、66年には東京で開かれた国際がん学会でも、アスベストのガン原生が確認されていた。

このような状況にありながら、我が国では、1960年代に入ってから急激にアスベストの輸入量を拡大し、大量使用を開始した。経済発展と国民の生命健康を天秤にかけ、経済発展を優先させたのである。

我が国における50年代のアスベスト輸入量は、年平均27,465トンであったのに対し、60年代に入って輸入量はいっきに平均145,314トンまでのび、さらに70年代では294,975トンと倍増し、80年代にはいっても265,983トンと横ばいであった。

我が国の輸入量の推移の最大の特徴は、ガン原生が明確となった70年代にはいり、他の先進諸国がアスベスト使用量を減少させていた時期になお、大量使用を継続したことである。我が国においては、経済最優先の政策が維持され続けたのである。

この裏返しとして、我が国のアスベストに対する規制は極めて不十分なものにとどまり続け、50年代から60年代にかけては、通達等によって事業主に対し粉じん対策等の指導をするにとどまり、きちんと法令でもって局所排気装置の設置やマスクの着用の義務付け、安全教育の徹底など、実行性ある規制の実施を怠り続けた。

70年代にはいって初めて規則を制定するも、濃度の基準値は極めてゆるやかであり、マスクの着用についても事業主の義務とはしないなど、極めて産業側に配慮した規制をつづけ、90年代にはいってからようやく一部の石綿の使用禁止をしたが遅きに失し、全面禁止はクボタショック以後の2006年まで待たねばならなかった。

以上のような施策を続けた必然的な帰結として、アスベストによる被害者が各地で1万人を遥かに超えて発生し、現在も発生しつづけることとなった。さらには、多くの労働者らや工場の周辺住民などが、静かなる時限爆弾が破裂する恐怖におびえながらの生活を強いられているのである。

以上のような、国が意図的に採用しつづけてきた不作為は、すでに大阪泉南訴訟第一陣一審判決(2010年5月19日)、大阪泉南訴訟第二陣一審判決(2012年3月28日)、首都圏アスベスト訴訟東京地裁判決(2012年12月5日)によって、つまりすでに3度にもわたって、断罪された。

本訴訟は、1960年代から90年代にかけて職場でアスベストと接触し、アスベストに起因した肺がんで亡くなって2遺族の訴訟である。

被害者山本は石綿原料を運搬し、石綿製品を積み込む過程で曝露し、被害者藤原は、石綿エプロンなどの耐熱製品が劣化し、曝露した。被害者らは、国が60年代以降、時々の知見に照らし、きちんと規制を実施していれば、50代から60代の若さで命を落とすことがなかったはずである。国の責任は明らかである。

また、本訴訟はアスベスト企業のリーディングカンパニーたるクボタの加害企業としての責任を追及する訴訟でもある。

クボタは1954年に初めてアスベスト業界へ参入し、わずか4年でアスベスト管メーカーのトップシェアを占めるまでに拡大し、60年には、我が国の総輸入量の1割にも匹敵する9,254トンもの石綿を使って大量の水道管を製造するに至り、その後も建材の製造を含め、1995年に至るまで大量の石綿を使用しつづけた。

クボタは空気輸送装置を使ってアスベストを1階から3階まで運んでいたが、終末部のフィルターの性能には限界があり、大量のアスベストがフィルターを通して大気中へ放出された。

この結果、旧神崎工場内外で夥しい犠牲者が発生し、クボタが救済金を支給することによって事実上認めた被害者数だけで、平成24年9月30日現在で241名にのぼっており、労災認定者数も183名にまで至っている。

なお、クボタはアスベストによって最大でかつ最悪の被害を生み出した企業であることは公にも認められており、石綿健康救済法の拠出金の負担割合は、他のアスベスト企業と比べてもクボタが突出しているのである。

本訴訟での被害者山本はクボタ旧神崎工場にて大量の石綿を吸引し肺がんで死亡したことはすでに労基署による認定でも認められているところであるし、すでにクボタは、尼崎アスベスト訴訟(環境型)の神戸地裁判決(平成24年8月7日)にて、周辺住民の被害に対して断罪され、日通・クボタ訴訟においても、トラック運転手の遺族らへ1000万円を支払って和解しており、石綿粉じんの飛散及びその被害についてクボタに責任があることは明らかである。

以上

2013年5月1日付け原告ら第31準備書面への反論

弁護士 本上博丈

故山本の石綿粉じんばく露に関して,被告クボタ第12準備書面p5~20(飛散関係)及び同第13準備書面(浅田証言関係)に対して反論した。

1.クボタは,近隣ばく露による健康被害が問題になった山内保井訴訟における2012年8月7日神戸地裁判決が,「昭和29年から昭和50年ころ(あるいは昭和56年ころ)までの旧神崎工場内における石綿飛散対策では,建屋内や敷地内で発生した石綿粉じんの飛散を充分に防ぐことはできておらず,石綿粉じんが同工場の敷地外に飛散していたことが認められる。」と認定したことについて,種々の批判を行っている。

しかし,その批判はいずれも適切な証拠に基づくものではないし,合理的なものでもなく,石綿粉じんの飛散に関する神戸地裁判決の事実認定に誤りはない。ましてや,本件訴訟において故山本の関係で問題になる石綿粉じんの飛散は,昭和36年ころから昭和42年ころまでの間という比較的早い時期であり,飛散対策の進展や石綿使用量の推移から見ても工場建屋外への飛散が容易に推認できる期間である。また故山本は労働者として主に同工場敷地内で就労した際のばく露が問題になるから,どこまで飛散していたかということが深刻な問題となるわけでもない。

2.クボタの飛散対策に関する主張は,そのご都合主義的なところからも信用できない。すなわち,先行した山内保井訴訟では,昭和39年ころ,遅くとも昭和43年ころまでに導入した機械装置等により,根本的な粉じん対策は完了したと主張している。これに対し本訴訟では,「石綿自動供給装置を導入した昭和38年ころには,原料処理工場内の根本的な粉じん対策は完了していた」(クボタ第12準備書面p16)と前倒しした主張をしている。この前倒しは,本訴訟で問題になるばく露期間が昭和36年ころから昭和42年ころまでの間であることに対応したものとしか考えられない。クボタ主張のご都合主義は明らかである。

3.クボタの中心的な証拠は,昭和63年1月ころに労災申請の際の資料として作成し労基署長に提出したという乙B2「久保田鉄工(株)新淀川工場神崎分工場関係資料」(88年報告)である。

しかし,88年報告は,そもそもいつ,誰が,どのような資料に基づいて作成したのかが全く不明である。クボタは,特化則に基づく労基署提出資料さえ保存義務が定められていなかったから保存されていないとし,山内保井訴訟において原告らが提出を求めた資料のほとんどについて古いものだから現存しないと回答しているのに,88年報告を作成した時には十分な資料があったというのは全く不自然である。したがって,乙B2の信用性は限定的に理解すべきであり,クボタ月報その他のその時々に作成されていた文書によって裏付けられる記載内容であればともかく,そうではなく乙B2だけにしか記録がない事実はたやすく認められるべきではない。

4.これに対し,原告らが提出する甲C54浅田証言は,写真撮影を趣味として身の回りの事象の観察眼があった浅田が,昭和38年ころからは所属していた写真家集団において公害問題を取り扱うようになり,浅田自身は旧神崎工場の北方100mほどの至近に居住していたこともあって特に粉じんに身近な公害として強い関心を抱いていたという前提の下で,体験した様々な事実を,法廷において記憶に従って真摯に述べたものであり,その信用性は高い。クボタにも十分な反対尋問の機会が与えられている。

そして,浅田が旧神崎工場の敷地内及びその周辺部でひどい粉じんを体験していたという時期と,故山本が就労のため昭和36年ころから昭和42年ころまで同工場に立入り,その倉庫内や敷地内で就労していたという時期とはほぼ重なっている。したがって,故山本は,浅田が証言するようなひどい粉じんの中で約6年間にわたって就労を続けていたことになる。

以上